今回は柔道66キロ級金メダリスト「阿部一二三 選手」の強さの秘訣について記事にしました。
阿部一二三選手は東京オリンピックで妹の「阿部詩選手」と共に兄妹で同日優勝を成し遂げました。そんな阿部兄妹ですが、パリオリンピックでも2大会連続の兄妹での優勝に期待がかかっています。
「阿部一二三選手」に生い立ちを紹介しながらその強さの秘訣を紐解いていきます。
阿部一二三選手の生い立ち・経歴
小学生時代
1997年、兵庫県神戸市で生まれた阿部一二三選手は三人兄妹の次男です。兄妹と同じく「兵庫少年こだま会」で6歳の頃に柔道を始めました。
両親は柔道経験はなく、両親ともに小柄だったため、身長もある程度までしか伸びないだろうと考えておられていたようです。他のスポーツも考えられていたようですが、小柄だった阿部一二三選手が体重別で戦える競技を考えた時に柔道だと思いつき両親が提案されたことが始めるきっかけでした。
最初は練習に行きたくないと駄々をこねることもあったそうです。しかし、負けず嫌いだった一二三選手は大柄の相手に勝つことができず、体力を付けるために父親と道場まで走って通い始めるようになります。これが現在の体力基礎となっている部分なのかもしれません。
また小学3年生時には、同学年の鍋倉那美選手に投げられて負けた経験があり、これが阿部一二三選手の練習の意識を高めるきっかけになりました。「鍋倉選手がいなければ今の自分はいなかったかもしれない」と振り返るほど、その経験は阿部一二三選手にとって大きな影響を与えたようです。
小学生時代は全国大会に出場も1度もなく、悔しい思いもされていたそうです。ハングリー精神は小学生の頃に養われたものなのかもしれませんね。
中学生時代
神戸市立神戸生田中学校に進学し、この頃から頭角を現し始めました。当時の阿部一二三選手は逆境に立たされた時に力を発揮するようになっていたそうです。負けず嫌いな性格が本来持っているパフォーマンスを最大限に発揮できる力になっていました。
中学2年生の頃、全国中学校柔道大会、55キロ級で優勝を果たします。全国の舞台で決勝を戦った相手はその前の近畿大会決勝で負けている相手だったようです。負けた時は会場で泣き崩れていました。しかし、近畿大会で負け、相当悔しい思いをした一二三選手は全国の決勝の舞台で、雪辱を果たすことに成功します。
その優勝を皮切りに全国で舞台でも圧倒的な強さで勝つようになっていきました。中学3年生の時には全国大会でも初戦から5試合を3分ですべて1本勝ちをして優勝を果たす実力でした。
・2011年 8月 全国中学生柔道大会 55キロ級 優勝
・2012年 8月 全国中学生柔道大会 60キロ級 優勝
9月 アジアジュニアユース選手権 60キロ級 優勝
高校生時代
高校は神港学園高校に進学します。この高校は柔道の強豪校ではありませんでした。しかし、阿部一二三選手はあえてこの選択を取りました。神港学園高校には、小学5年生の頃から練習に通っており、中学生の頃にはほぼ毎日稽古に通っていたようです。
通い慣れた道場で、更に実力に磨きを掛けます。
高校では「阿部シフト」という阿部一二三選手の育成に特化した時間が確保され、その時間は全員が阿部一二三選手のペースに練習を合わせ、稽古を行っていたそうです。どれだけ監督、チームメイトが阿部一二三選手に期待を掛けていたか想像がつきますね。
そして高校1年生の時に早速、全校高校選手権73キロ級で優勝を果たします。高校2年生の頃はインターハイすべての試合を一本勝ちで優勝し、圧倒的な実力を発揮します。
更に柔道部界に衝撃を与えたのは、2年生の時に国際柔道連盟が主催する国際大会「グランドスラム・東京」で17歳118日での史上最年少での優勝でした。
それからシニア大会にも挑戦をしますが、なかなか結果を出すことができず「どうすれば勝てるか」試行錯誤の日々が続いていたそうです。なにより、応援してくれている家族、監督、チームメイトに「恩返しがしたい」と言う気持ちがあり、努力を続けていたようです。
高校時代にも多くのタイトルを獲得しています。
・2013年 4月 全日本カデ柔道体重別選手権大会 66キロ級 優勝
8月 世界カデ選手権 66キロ級 2位
・2014年 4月 全日本カデ柔道体重別選手権大会 66キロ級 優勝
8月 ユース五輪 66キロ級 優勝
9月 全日本ジュニア選手権 66キロ級 優勝
10月 世界ジュニア選手権 66キロ級 2位
11月 講道館杯全日本体重別選手権 66キロ級 優勝
12月 グランドスラム・東京 66キロ級 優勝
・2015年 7月 グランプリ・ウランバートル 66キロ級 2位
8月 全国高校総体 66キロ級 優勝
10月 グランプリ・タシケント 66キロ級 優勝
11月 講道館杯全日本体重別選手権 66キロ級 3位
大学生時代
大学はスポーツの名門、日本体育大学、体育学部、武道学科に進学します。
日本大学に進学した理由は次のように述べています。
「東京に出てゼロからスタートしたいと思っていたことと、軽量級の層の厚さ、整った練習環境などを総合して自分に一番合う環境だと判断し、ここならさらに強くなれると思えたことが進学の理由です。」
新たな環境を求め東京大学に進学された阿部一二三選手。ここで更に成長され、多くの成績を残します。
しかし、良い経験だけではなく、悔しい思いもされています。2016年リオデジャネイロオリンピックでは周囲から出場を期待されていましたが、海老沼王匡選手がその出場権を獲得し、阿部一二三選手は落選します。
このような悔しい思いが原動力になっていたのかもしれません。
オリンピック落選を経験した次の年の大学2年生の時に世界選手権で妹の阿部詩選手と同時優勝を果たすことに成功しました。それから2020年に東京オリンピックの出場権を獲得し、再び兄妹揃っての金メダルを獲得しました。
・2016年 4月 全日本選抜体重別選手権 66キロ級 優勝
7月 グランドスラム チュメニ 66キロ級 優勝
12月 グランドスラム 東京 66キロ級 優勝
・2017年 3月 グランドスラム パリ 66キロ級 優勝
4月 全日本選抜体重別選手権 66キロ級 優勝
8月 世界選手権ブタパスト大会 66キロ級 優勝
12月 グランドスラム 東京 66キロ級 優勝
・2018年 3月 グランドスラム エカテリンブルク 66キロ級 優勝
7月 グランドスラム ザグレブ 66キロ級 3位
9月 世界選手権バクー大会 66キロ級 優勝
11月 グランドスラム 大阪 66キロ級 2位
家族のサポート
阿部一二三選がこれまでの活躍ができているのは家族のサポートがありました。
ご両親には柔道経験がなく、小学生時代も技術面で阿部一二三選手に技術的な指導はできず、毎回励ますことができなかったとインタビューで応えています。
しかし、父親の浩二さんは小学校時代に負けて悔しがっているのを見て「まず走ろう」と阿部一二三選手と二人で心肺機能を高めるため道場まで走るようになります。休日にも身体を鍛えるため、公園を走ったり、体幹を鍛えるトレーニングに一緒に励んだとされています。
ここで体力の基盤ができた小学5年生頃から勝てる選手へと徐々に変化していきました。父の浩二さんとのトレーニングがなければ、現在の阿部一二三選手がいなかったかもしれません。
続いて母親の愛さんは、食事面で身体にいいものを工夫してメニューに取り入れ、身体作りをサポートされました。種類豊富で6種類ぐらい作っておられたそうです。
父親の浩二さんとトレーニングに励み、母親の愛さんがコンディション調整を行い、幼少期から世界王者になる環境が整っていたのかもしれません。
また妹の阿部詩選手は一二三選手に刺激を与える存在です。詩選手の活躍を見ていると「自分も結果を残さなければ」と言う気持ちになり、努力を続ける原動力になっているようです。お互いが良いライバルとして切磋琢磨し合って来られました。更に兄弟で金メダルを獲得するという目標を掲げていたため、自分だけでは成し遂げられない目標があったからこそより達成した思いが強くなっていたのかもしれません。
まとめ
阿部一二三選手の成功には、父親の浩二さんと母親の愛さんのサポートが欠かせませんでした。浩二さんは身体の基盤を築くためのトレーニングを行い、愛さんは栄養面でサポートしました。妹の阿部詩選手の活躍を刺激として努力を続けることができたようです。
阿部選手は負けず嫌いな性格を持ち、苦境に立たされた時に力を発揮する傾向があります。特に中学生時代には、逆境に立たされるとさらなるパフォーマンスを発揮し、全国大会での成功を収めました。
阿部一二三選手は幼少期から努力を惜しまず、浩二さんとのトレーニングや愛さんの栄養サポートを通じて、徐々に強さを築いてきました。また、順風満帆な柔道人生ではなく挫折や落選などの経験を乗り越えながらも、目標に向かって継続的に努力を重ねてきました。
妹の阿部詩選手も柔道選手として活躍し、兄妹でのライバル関係がお互いの成長を支えてきました。特に東京オリンピックでの兄妹同時優勝という目標を共有し、お互いを切磋琢磨することで、世界的な成功を収める原動力となりました。
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