
朝ドラ「ばけばけ」で主題歌を歌う「ハンバートハンバート」。2人は夫婦であり、日常的な暮らしと音楽を密接に重ねながら活動を続けてきました。
そんな彼らについて、「障害・吃音(どもり)があるのでは?」という噂を見かけることがあります。また、夫婦という関係だからこそ強さ・弱さ・絆が曲に昇華されているところにも興味があります。
そこで本記事では、公開情報・楽曲表現・メディア発言などをもとに、「ハンバートハンバートと吃音」についてできる限り整理しつつ、「夫婦としての絆」がどのように音楽と生き方に反映されているかを掘り下げてみたいと思います。
「障害で吃音がある?」
調べた範囲での結論
調査した限りでは、ハンバートハンバート(佐藤良成・佐野遊穂)のどちらかが「障害としての吃音(きつおん)」を公的に申告している、あるいは医学的に診断されたという情報は見つかりませんでした。芸能・音楽情報サイト、インタビュー記事、彼ら自身の発言などを複数調べましたが、「本人が吃音障害である」と明言されている信頼できる一次情報は確認できません。
そのため、「ハンバートハンバートに吃音がある」と断定してしまうのは、現時点では根拠が弱く、センシティブな問題でもあるため慎重を要します。ただし、「吃音」をテーマにした楽曲表現やリスナー・ファンの解釈・噂・音楽的なモチーフとしての扱われ方などは確かに存在しており、それらを手がかりに、可能性と表現面での意義を見ていきましょう。
吃音を扱った楽曲表現 ― 「ぼくのお日さま」
ハンバートハンバートの代表的な曲のひとつ 「ぼくのお日さま」 においては、歌詞冒頭から以下のような表現が出てきます:
「ぼくはことばが うまく言えない
はじめの音で つっかえてしまう」
「こ こ こ ことばが の の のどにつまる」
この歌詞には、「言葉をうまく発せない」「最初の音がつかえてしまう」「のどにつまるような感覚」など、吃音(発語の遅れ・音の繰り返し・詰まりなどを感じる現象)を思わせる表現が含まれています。実際、音楽メディアのインタビューやファン記事では、この楽曲を「吃音をテーマにしている/吃音のもどかしさを歌ったもの」として紹介されていることもあります。
また、映画『ぼくのお日さま』では、吃音を抱える少年の心情を描いたストーリーが、同名楽曲を契機に発展したとされるインタビューもあります。監督の奥山大史氏は、物語構想にあたりこの楽曲と出会ったことを語っており、作品世界において「言葉をうまく言えない少年の心情」が重要なモチーフになっています。
これらから、「ぼくのお日さま」は吃音的な葛藤をモチーフにした歌である、という見方は広く共有されています。
噂・ファン記事・断片的言及
一部ファンサイトやブログでは、「ハンバートハンバートは障害・吃音を持っているのでは?」という仮説を挙げているものもあります。例えば “ハンバートハンバート 障害、病気、吃音” といったキーワードを扱う趣味的サイトが存在します。 ただし、こうしたサイトは信憑性・根拠の検証が曖昧な場合が多くあります。
また、あるブログでは「ハンバートハンバートというフォークソングを歌うデュオの吃音の方々に向けた曲」という表現が見られますが、これもあくまで “向けた表現/解釈” にとどまり、本人の障害を証明するものではありません。
ゆえに、現時点では「確定的な吃音障害を持っている」という表現は避け、「吃音を題材として扱っている可能性」「表現のモチーフにしている可能性」といった言い方が妥当だと考えられます。
吃音とは? そしてその苦しみ・表現
吃音(きつおん、stuttering, stammering)は、言葉を話そうとする際に「音・音節の繰り返し、伸ばし、詰まり(出にくさ)」といった現象が見られる状態を指します。必ずしも「障害」と呼ばれる場面もあるものの、その重度・頻度・個人差は非常に大きく、発達的・環境的・心理的な要素が関与することが知られています。
吃音を持つ人は、話そうとする緊張感、自己意識、他人の反応への恐れなどが言語行為に影響を与え、「言いたいことがあるのにその表現ができないもどかしさ」を抱えることが多く、心理的な負荷を感じるケースも少なくありません。
音楽や詩の世界では、その「言葉がつまる」もどかしさ、言いたくても出せない思い、内面の叫びを「言葉にならない」「歌になる言葉/メロディに託す」などの方法で表現することがあります。だからこそ、吃音を扱った歌には、言語と抑圧された感情とのはざまの葛藤が浮かび上がることがあります。
ハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」は、ちょうどそのような「言葉にできないもどかしさ」や「言いたい思いの渦中にある心情」が歌詞に昇華されており、聴き手に直接響く力を持っているように思われます。
この意味で、「ハンバートハンバート=吃音を抱えている」という仮説よりも、「吃音的な葛藤や表現性を扱ってきたアーティストである」という立ち位置が、現在確かな見方だと私は感じます。
夫婦としての絆・日常と音楽の融合
ハンバートハンバートは「夫婦デュオ」であり、それゆえに音楽性・生活性・感情の共有が、彼らの作品世界・ステージ表現にとって不可分な要素となっています。
日常 → 音楽への接続
インタビュー記事によれば、彼らは「生活と創作が地続きにある」ことを重視しており、日々の暮らしのなかで感じたこと、関係性の揺らぎ、子どもや家族との時間などを楽曲に変換する手法をとっています。
たとえば、ある取材では「メロディ先行で作る」「歌詞が後になる」「遊穂(妻)が歌詞を聴いてジャッジする」といった制作の流れが語られるなど、共同作業・お互いの非言語的絆・信頼関係が創作プロセスそのものに内包されている様子がうかがえます。
また、ライブ現場でも観客の前でコミュニケーションを交わしたり、掛け合いをしたり、ステージ上での“じゃれ合い感”を大切にしているという記録があります。これは「夫婦としての距離感」や「ペア感覚」を音で可視化するような表現性だといえるでしょう。
支え合い・補完関係
夫婦ユニットである以上、互いの弱さ・コンプレックス・葛藤を支え合う関係性は不可欠です。仮に一方に吃音的な表現性や心的な重荷があったとしても、それを二人で受け止め、音楽の共通言語に変えていく力が、彼らのパートナーシップにはあるように感じます。
たとえば、ライブで「ぼくのお日さま」を歌う際、歌い出しは一方が主旋律を担当し、サビでハーモニーを重ねながら互いを支え合う構図が描かれることがあるとライブ感記事で語られています。
また、メディアでは、二人が子育てを重ねながら音楽活動を続けてきたことを取り上げ、「コンプレックスやみじめな気持ち、生きる悲しみを根底に抱えつつ、それを朗らかに歌にする姿勢」が彼らの魅力とされることがあります。
こうした姿勢は、夫婦という関係性だからこそ可能になる、相互理解とゆるやかな補完関係を反映しているのではないでしょうか。
絆が作る「言葉にならない表現」
言葉が詰まるようなもどかしさ、あるいは言葉にしたくない感情、言いたくても出せない思い… そうしたものは、言語表現だけでは扱えないことがあります。ハンバートハンバートの場合、「言葉にならないものを音楽・ハーモニー・静寂の間」に込めることが得意だと思われます。
言語で表しにくい感情を、歌・音色・間(ま)・無言・浮遊感で包むような表現を重視してきたスタイルは、夫婦の絆・共有感覚があって初めて成立しうるものとも思います。お互いが余白を許容し、相手の表現を汲み取る心性が二人にあるからこそ、音楽が「言えないことを代弁する装置」として機能するのではないでしょうか。
たとえば、曲の合間に沈黙を残す、フレーズの終端を曖昧にする、ギター・バイオリン・コーラスが絡み合って言葉の領域をぼかす、そういった技法は、言語以上の「共有感情」や「余白」を大事にする感覚と結びつきやすいと思われます。
まとめ
本記事を通して整理できたことを、最後にまとめておきます。
- ハンバートハンバートのいずれかが「障害としての吃音を持っている」と明言された信頼できる情報は現時点では確認できない。
- ただし、代表曲「ぼくのお日さま」をはじめ、歌詞表現やメディア解釈において、言葉が詰まる・言いたくても言えない葛藤などを描く表現がつねに目立っており、「吃音的なモチーフ」は彼らの音楽世界に確かな位置を占めている。
- 夫婦デュオであるがゆえに、日常と創作が地続きであり、相互補完・支え合い・余白を尊重する関係性が、お互いの弱さや葛藤を音楽へ昇華する基盤となっているように思われる。
- だからこそ、私の現時点での見方としては、「彼らが吃音障害を持っているかどうかを確定的に論じるよりも、吃音的な葛藤を通じて言葉にならない思いを表現するアーティストである」という理解が最も妥当だと考えています。
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