【新1000円札】北里柴三郎とは?何をした人?近代日本医学の父の業績を解説!

今回は2024年7月3日に新しくなる1000円札に選ばれた北里柴三朗さんについて記事にしたいと思います。

2004年から野口英世さんが1000円札の表面を務めてきました。20年ぶりの変更となります。

北里柴三郎は「近代日本医学の父」と呼ばれている人物です。なぜそのような肩書が付けられたのかこれまでの功績をまとめてみました。最後まで見て頂ければ幸いです。

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この記事でわかること

・北里柴三郎の生い立ち

・北里柴三郎の功績

・北里柴三郎の現在への影響

目次

北里柴三郎の生い立ち

幼少期

1853年1月29日に肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現:熊本県阿蘇郡小町)に生まれました。この頃の出来事はペリーが来航した辺りになります。

北里柴三郎の母親は教育には厳しく、幼い事から親戚に預けられ、厳しいしつけをされて育ちます。

小学生時代~

8歳から2年間、父の姉の家に預けられ、伯父から「四書五経」を学びます。

そら

四書五経ってなに?

四書五経は、中国の古典文学であり、儒教の重要な経典だよ。四書には『大学』『中庸』『論語』『孟子』が含まれ、五経には『詩経』『書経』『礼記』『春秋』『易経』が含まれる。これらの文献は、儒教の教えや倫理、政治思想などを伝える重要な文化遺産だと言われているよ。

なんだか難しいな…

簡単に言えば「志や人としての在り方」を学べるものだよ。

2年間学んだ後も次は母の実家に預けられ、漢籍・国書を4年間学ぶことになります。

16歳頃~【マンスフェルトとの出会い】

地元に帰り、教師、市役所の見習いとして採用され働きはじめます。しかし、すぐに辞表を提出します。

それから18歳の時に古城医学校(熊本大学医学部)に入学し、そこでオランダ人の医者マンスフェルトに出会い人生が大きく変わります。マンスフェルトの勧めで医学の道に進むことを決意します。語学を学び4年間マンスフェルトの側近として通訳を担いながら、医学を学びます。

1875年、23歳で上京し、東京医学校(東京大学医学部)に入学します。そこでは「医者の使命は病気を予防することにある」と医師としてあり方を提言します。その考えを「医道論」に書き収め、予防医学に従事することを決意します。

30歳頃~【破傷風菌純粋培養に成功】

1883年、31歳に卒業し、内閣省衛生局に務めます。それから経験を積み、1885年にドイツベルリン大学に6年間留学します。

ドイツでは「近代細菌学の開祖」と呼ばれる「コッホ」の元で研究に明け暮れます。

1889年に世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養」に成功します。当時、破傷風は感染すると死亡する確率が高い病気でした。多くの医師が破傷風について研究を進めていましたが、失敗に終わる中、北里柴三郎が成功させる快挙を成し遂げました。

翌年、破傷風菌抗毒素を発見し、「血清療法」という体内に抗体を作り出す予防法を発見しました。いわゆる予防接種です。これは世界の医師界を驚愕させました。

さらにジフテリアにも血清療法を用いて免疫を作り出すことに成功します。当時同僚であったベーリングと論文を発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞にノミネートされます。しかし、受賞されたのは同僚のベーリングでした。

受賞を逃した北里柴三郎ですが、ドイツ政府から「プロフエッソル」という大博士と認められたものに与えられるものが授与されました。外国人が選ばれたのは初めてのことでした。

この論文をきっかけに多くの大学から招きの声が掛かりますが、日本国民を救うため帰国する事を決意します。

32歳頃~【私立伝染病研究所の創立】

帰国後、研究の環境が用意されていませんでしたが、福沢諭吉が北里柴三郎の功績を称賛し、全面協力の元「私立伝染病研究所の創立」(現:東京大学医科学研究所)を設立します。北里はその初代所長となりました。

更に翌年には、結核専門病院「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」を開設し、結核の治療と予防に注力します。当時、結核は恐ろしい伝染病でしたが、この機関が設立され、それから研究が進み、現在では治療法も確立されている病気になりました。

1894年には中世ヨーロッパで流行っていた伝染病が中国でまた流行り出したため、その原因を突き止めるため、香港に向かいます。到着後1週間ほどで「ペスト菌」と突き詰め、更に菌を運ぶのはネズミだと発見し、対策等を指導し、ペスト菌の終結に貢献しました。

少し遡り、1899年には「私立伝染病研究所」は内務省の管轄になり「国立伝染病研究所」となりました。しかし、1914年には内務省から文部省に移管することが決定しました。当時所長であった北里には、移管することの相談もなく、政府が勝手に変更する方針を固めたため、北里柴三郎は所長を辞任します。

61歳頃~【私立北里研究所】(現:学校法人北里研究所)

辞任後、新たな研究機関である「私立北里研究所」(現:学校法人北里研究所)を設立します。ここでインフルエンザ・赤痢・狂犬病に対する血清開発の研究に取り組みました。

1917年には「慶應義塾大学部医学科」が作られ、学長に就任します。慶應義塾大学部医学科は福沢諭吉が関与していたのもあり、これまでの後押しの恩を返すため、終生無給で貢献しました。

さらに同じ年には全国の医師会「大日本医師会」(現:日本医師会)が設立され、北里柴三郎は初代会長を務めました。

1931年に脳溢血で自宅で死去。享年80でした。

まとめ

北里柴三郎の功績

・破傷風菌純粋培養法に成功。

・ジフテリア毒素と破傷風毒素に効く血清療法を開発。(ワクチン)

・「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」でノーベル生理学・医学賞にノミネート。

・ペスト菌の発見。

北里柴三郎にゆかりのあるもの

・私立伝染病研究所(初代所長・現:東京大学医科学研究所)

・私立北里研究所(現:学校法人北里研究所)

・慶應義塾大学部医学科(初代学長)

・大日本医師会 (初代会長・現:日本医師会)

北里柴三郎が育成した人物

・野口英世

・北島多一

・秦佐八郎

・志賀潔

・宮島幹之助

北里柴三郎は近代日本医学の発展に多大な貢献をし、その業績は現代の医学にも影響を与えています。

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