【新5000円札】なぜ津田梅子が選ばれた?何をした人?生い立ち・津田塾大学などを徹底解説!

今回は2024年7月3日に新しくなる5000円札の図柄に選ばれた津田梅子さんについて記事にしたいと思います。

2004年から樋口一葉が5000円札の表面を務めてきました。20年ぶりの変更となります。

津田梅子は女性が社会で活躍していくための教養を学ぶための女子英学塾(のち津田塾大学)を設立する功績を収められています。

設立するまでの経緯や生い立ちを記事にまとめましたので、最後まで見て頂ければ幸いです。

この記事でわかること

・津田梅子の生い立ち

・津田梅子の功績

・津田梅子の現在への影響

目次

津田梅子の家族

父の名前は津田仙、母は津田初子です。

父の仕事は梅子が生まれた時は江戸幕府に外国奉行支配通弁(通訳官)に務めていました。

それから年月が過ぎ1867年には幕府の使節の随員として福沢諭吉らと共に渡米をして活躍されています。しかし、元号が明治に変更する年に退官しています。

1869年には、外国人の旅行者のために設けられた「ホテル間」で務めたとされています。

梅子の父は新しいことにチャレンジすることが好きだったようで梅子も父のチャレンジ精神を引き継ぎ5000円札の表紙にされるまでの影響力を持った人物になったのではないでしょうか。

津田梅子の生い立ち(現;津田塾大学が設立されるまで)

幼少期(女性の人権について疑問)

津田梅子は1864年12月31日に東京江戸牛込南御徒町(現:東京都新宿区南町)で武士の家系の次女として生まれました。

梅子が3歳の時に明治時代が始まり、誰もが職業を選択できるようになりましたが、実際女性には自由などなく、家の手伝いをするのが当たり前でした。

小学生時代~(渡米)

1871年に岩倉使節団と共に父の仙の提案でアメリカに留学します。

アメリカ留学の目的は黒田清隆が男女平等・女性教育の必要性を感じ、女子留学生を募り日本に女性の人権を広めるのためでした。

留学には梅子を含めた5名が留学生として認められました。

当時7歳の梅子ですが、親元から離れ日本のためにフェリーで23日掛けて渡米します。

梅子は、子供ワシントンDCに到着すると子供のいないランマン夫妻の元に預けられます。

しかし、一緒に渡米した4人のうち2人が体調不良で帰国します。梅子と残った山川捨松永井繁子3人助け合い生活していく事になりました。この二人は津田塾大学を設立する時に力を貸してくれます。

梅子は留学してから努力を続け、常に良い成績を収めます。それは幼いながら日本の女性教育を変えたい思いがあったためです。

最初の留年は11年で帰国する時には18歳でした。

1度目の帰国 当時18歳~(絶望を感じる)

帰国後、女性は家の手伝いをするのが当たり前とされている風習がまだ残っており女性の社会進出が遅れていることに絶望することになります。

帰国から1年弱が過ぎたころに伊藤博文と岩倉使節団で同行して以来初めて再開します。そこから伊藤夫妻とともに私塾・桃夭女塾の創設者、下田歌子の元に訪れ、「梅子が下田に英語を教える」「下田が梅子に日本語を教える」「梅子が伊藤の妻と娘に英語や西洋式マナーを教える」になり、伊藤宅引っ越します。

しかし、それも母親の初子が病気になり、半年間で自宅に戻ることになります。

華族女学校教授となる 当時21歳~(期待から始まるが。。)

皇族や華族の子女などが通う華族女学校が伊藤の推薦で設立され、梅子は英語教師として教壇に立つ事になります。

期待に満ち溢れていた梅子でしたが、女子生徒の学ぶ姿勢に絶望します。生徒たちにとって学校とは、単なる花嫁修業に過ぎず、ここでも日本の風潮を感じ取ります。

この頃の日本はすべて男性が決め、それに女性が従うというものでした。

梅子の夢は自立した女性を育てたという思いがあり、再び留学することを決意します。

再び留学 当時24歳~(日本を変えたい強い意志)

梅子は女性の社会進出を進めるための強い意志を持ち、再び渡米します。

渡米し、ブリンマー大学で生物学を専攻します。そこで「蚊の発生」に関して素晴らしい研究の成果を挙げます。それに関する論文は米国の学術雑誌に掲載され、日本人女性初となる快挙を成し遂げています。

その時のトーマス学部長に認められ、帰国する予定が迫っている時に学部長にアメリカに残り、梅子の才能を発揮すべきだと進められます。しかし、梅子は「日本の女性が自立して生きていくために、女性のための学校を作る」と尊敬していたトーマス学部長の提案を断ります。

留学期間は2年を予定していますが、3年間過ごし、帰国することになります。

帰国 当時27歳~ (女性の学校を作るための活動から設立まで)

帰国後、華族学校や明治女学院の講師を務めながら女学生に積極的に援助を行いました。

1899年に女子大学創設運動や法整備で女子教育への機運が高まり、梅子は自分の学校を設立する活動を始めます。

1900年に資金集めも心配されましたが、最初の留学を共にした捨松と繁子などと募金を募り36歳の時に梅子、念願の「女子英学塾」を設立することができました。

最初は10名ほどしか生徒はいませんでしたが、「積極的に自分の意見を発言すること」を徹底的に教育し「女性にも学ぶ力や社会を変える力があることを証明しましょう」と呼びかけることをやめませんでした。

すると、学校の評判はすぐに広まり、8年後には学生数は150人に達しました。

この学校が現在の女性の社会進出の大きな第一歩になりました。

体調を崩す 当時52歳~ (生涯を終える)

52歳になると長年の疲れからか入退院を繰り返すことになり、54歳になると自身が学長として活動をしていくことに限界を感じ、実質的な活動を終えました。

それから1928年には昭和天皇即位の大典に際して勲五等に叙され、瑞宝章を授けます。

翌年、多くの成果をこの世に残し64歳の夏に脳出血のため亡くなりました

まとめ

幼少期から女性の人権に疑問を持ち、自らの教育と活動を通じて社会を変えようとする梅子。彼女は武士の家に生まれながら、明治時代の動乱と共に女性が抱える問題に早くから気付き、その解決に向けて行動します。

アメリカ留学では、女性の教育の必要性を感じ、留学生としての活動を通じて自らも学び、成長していきます。特に、留学時の困難な状況に立ち向かいながらも、共に助け合った仲間との絆が彼女の後の活動に大きな影響を与えました。

帰国後も、女性の社会進出や教育の問題に取り組みますが、日本の風潮や女子生徒の姿勢に絶望することもあります。しかし、その絶望を乗り越えて再び留学し、アメリカでの学びを日本に生かすことを決意します。

そして、帰国後は自らの学校を設立するために奔走します。女子英学塾の設立は、彼女の夢が具現化された瞬間であり、その後も様々な活動を通じて女性の社会進出を促進します。

しかし、長年の活動がもたらす疲労や体調の問題に苦しむ彼女の姿も描かれています。しかし、その死後も彼女の功績は称えられ、彼女の足跡は多くの人々に影響を与えました。

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